思考が大事
人が抱える苛立ちとはどのような瞬間に感じるのだろうか。
最近自分が直面しているのは、理想と現実のギャップによるもの。
あの人ならこうしてくれる。
この状況だと、こうするでしょ。
こうするのが当たり前じゃないの?
自分の正しさとか、正義みたいなものを他人に押し付けているだけなのだ。
同時に思うのは、このように思わないとやってられないということ。
結果にコミットするのは当たり前、その上でこのように行動することが必要だと自分なりの仮説を持ちえているが、思考は誰もが異なるもので結局はすり合わせが必要だ。
落とし所というべきか、明確な折衷案を掲示しなければならない。
なんだかんだ、自分は譲ってしまう方だけど、これって損してるよね。
自分の挑戦の機会を逃しているだけだから。
自分には何ができて、何が出来ないのかすらわからないことほど不毛な時間はない。
このような気付きを如何に増やせるか。自分にとって頭の思考以外の要素を占めることができるか。
他人の頭を使って、自分にとって良い方向へとベクトルを向けることが今の自分にとっては必要なんだと思う。
だからこそ人は他人から学び、繋がりによって幸福感を感じたりなど豊かな人生を送ることができるのだろう。
結局、人はひとりでは生きて行けない。自分のためにも頑張れない。
誰かのため、何のために自分が頑張るのか。目的を明確を出来たときに人の心は動くのだろう。人の心を動かすのもまた、人の力である。
この思考レベルを潜在意識にまで落とし込むような生き方をしたい。
思考が変わると、行動が変わる~
最近、平日の夜に友だちに会って近況報告とか今考えていることを
お互い話し合うという時間を作っているが、なかなか相手の
思考がいい感じになってきていると感じる。
会社に対してなんだかんだストレスやフラストレーションを感じていても
何に怒りがあるのか、自分はどうしたいのかという明確なところまで落とし込めているからだ。
彼なりの対応策みたいなものもあるので、後は実行するのみ。
ただ、アクションを起こす上で心理的な不安や恐れがでてくるのかもしれないが。
怒りや恐れみたいなものは、時にネガティブな発想になり
被害者意識を生み出す。他責からは何も生まれない。生まれるのは負の感情だけだ。
どうせやるなら、楽しくやった方が良い。
どうせやるなら、大胆にやった方が良い。
アクションをしにいくというのは結局そういうことなのかもしれない。
全ては捉え方。
その友人がなぜそのような捉え方になったのか聞いておけばよかった。
以前はそうでなかっただけに。
言葉は発することで効果を発揮する
なんてことを思った。
思考の整理というのは、頭の中を文字で書き起こすのもいいが、
誰かに話してみるというほうが効果があるのかもしれない。
話すときというのは、伝えようという思いから簡潔にまとめようとするし、どの言葉が伝わるのかという瞬時に選ぶ思考になる。
結局この繰り返しが、より精度ある志向に行き着く。
考えているだけでは叶わない。言葉にすること、誰かに話すことでより頭の中からの変革が生まれてくるのだと思った。
だからこそ、聞き手には相手を否定せず何を話したいのか汲み取ってほしいし、
言葉を言い換えてその人にあった言葉を選んであげる。
その人の思考以外にあった最適解みたいなものを提供してあげられる人が理想の姿として芽生えるようになった。
そういう人は純粋に尊敬する。
あらゆる選択肢から物事を選択できるというのは、過去の経験に基づいて作られる。
結局はどのような時間を過ごしてきたか、どのようなお金の使いかたをしてきたのかというのが人となりを形成している。
おぼろげでは在るけれども、どう在りたいのかが見えてきた。
ただただ、ここに向けて歩みを進めることがとても重要なんだな~。
人との付き合い方を考える
あらゆる人間がいるこの世界で、
どのような人間関係を維持することが、幸せなのか。
また、どのように振舞うことが正しいのかという議論は多々ある。
関係構築による幸福感や人に与える影響力などは様々だ。
人との交易、交流の中で人は成長し、変化を感じる瞬間が得られるのだろう。
悩みの根源を人間関係にあげる人は多い。
コミュニケーションの中で生まれる歪みや、違和感など心の中で不快感情が生まれる瞬間に人は人間関係を良好に保つことを考える。
小さな一言が、大きな傷をつけるかもしれない。そんなつもりもなかったのにという気持ちも生まれることもある。
矛先はあくまで自分が不快にならないためにするため。
ベクトルが自分に向いているのが前提の考え方がある。
なぜ人は幸せになりたいのだろうか。
そもそも幸せをもとめているのだろうか。
とことん突き詰めてみると、満たされるという感情を人は求めて生きている。
不足感を感じると、補おうとうるし、満たされると、分け与えようとする。
人にはそれぞれのキャパシティがあり、ここを基準に物事を判断している。結局はキャパも人それぞれなので、個人差があるのは当然の話。
では、どのようになりたいのか。
やっぱり自分は与える人間になりたい。過去、人からの援助や応援が私にとっての幸福をもたらしてくれたし、感謝を誰かに還元したいという良い循環が生まれているという体感を得ている。
この気持ちに正直でいたいし、結局自分はどうありたいのかという話になる。
相手の振る舞いによって左右される自分もいるけど、
最後はどのように在りたいのか。他人よりもまず自分。
キャパシティの拡大をし続けることで、誰かに分け与えることができる存在に。
自分が感じた幸福感を人も感じてもらえるように。
恩を返していけるような人間になりたいと思う。
書評:知らない人に出会う
今読んでる本がこれ
知らない人に出会う (TEDブックス)
知らない人に出会う。非常にいい言葉だなと。
最近人と多く会うようにしているんだけど、これがなかなか楽しい。
お互いのことを話したり、質問したりと理解を深める中で
前向きな感情が生まれている。とにかく楽しいと。元気になると。
知見や情報も豊富なので勉強になったり、ひょうなコトで援助を得たり
人との繋がりを感じ、今更ながら人間らしい生活になっている。
学生時代、自分は何がしたいのか自問自答の果てに見える世界を美化して
人との繋がりや、影響を受けることを避けていた時期がある。
自分の中に芽生えた思いに正直にいたい。
自分らしく生きることが正解なんだと思っていた。
それも正しいのだけど、やっぱり人としての正常な感覚は残っていて
繋がりや、温かさみたいものに自分は喜びを感じるし
誰かのために頑張りたい。信頼する人のために力になりたいという願望の強さもより感じるようになった。
自分は人と繋がることで強さや良さがでるし、
人に活かされるタイプなんだな~と。
だからこそ、周囲の貢献や配慮を忘れてはいけない。
そういう理想像、在りたい姿みたいなものをより鮮明になってきたことで
今後の動き、生活の質が変わってくると思うし、それを望む。
よしっまずは、カフェで知り合う美女に話しかけることからかな~(笑)
やっぱり全ては、人が作っているんだよなー。
東京の某所にて、地方出身者が集いご当地品を集めたご当地飲み会なるものがあったので参加した。
人数はおそらく40名程度。
年齢も20代前半から30代後半など幅広くご参加いただけていた模様。
なかなか日常生活のなかで繋がりをもてないような関係性が生まれることは非常に楽しい体験だと最近になって思うようになった。
飲んで語らう時間というのは非常に時間が過ぎるのは早い。
予定時間を大幅に越しての解散となっている。
なんのせ参加して思うことは、人を集めるのって凄いことだということ。
不特定多数の人に対して、共通のテーマや何らかの目的に沿って関わり方によって行動を突き動かしたということだからだ。
その人にどのように関わり、メッセージを伝え、ニーズを喚起したのかという
簡単なようで、難易度の高いことを当たり前のようにやってのけている。
開催にあたり、ある程度は成功イメージを描いているものだ。
・人数は何人で
・机を囲って語らい
・男女問わず、新しい出会いが生まれている 等
すべては参加者によって創られる、それが空間というもの。
ふと、空間に似合うような人物になりたいと思った。
この空間にいる理由は、こういう理由で、自分に相応しいと思うと。
やっぱり全ては、人が作っているんだよなー。
具体的でないと、意味がない。
最近仕事がつまらない。
というよりかは、意義を見出せないという表現の方が正しい。
何故やるのか。根本的にはこの部分。
俺は将来どういうことをしたいのか、どのような価値を提供したいのか、
今のアクションを未来にどう繋げようとしているのか
結局は自分の意識次第なのかもしれない。
ただ、自分が熱中したときとか、集中して有意義な時間を過ごしたときって
だいたい明確な理由が存在している。
・仲間のために力になりたい。
・このままでいいのか?俺はもっと本気でやれんじゃないのか?
・こうしたい。こうありたい。こうなりたい。
なんのためとか誰かのためっていうのは
予想外に力になる。頑張る理由ってものが必要だ。
自分のためだと苦しくなる。人はやはり繋がっていながら価値を発揮していくものだと思う。
価値があるから、やる。ここに尽きる。
自分にとって価値のあることって何か?
自分はどう思うのかより明確に、具体的に明文化していく。