相手に対して悩むことほど無駄なことはない。
久々に怒鳴り散らされ、心が揺れ動かされる瞬間に陥った。
意図や経緯に理解に苦しむ瞬間もあったが、強度の罪悪感に苛まれ、その後なかなか通常のモードに戻ることができなかった。
これは何か試されているのかも、と思う反面
そんな怒らなくてもとか、非常識にもほどがある、人として疑うなど
相手に責任を向けてしまう瞬間もある。
いろんな感情がいったりきたりして、なかなか落ち着きが保てなかった。
しかし、こんな気分に陥ったのはいつぶりだろうか。
大人になり、怒られることが少なくなった。また、怒りが芽生えても表に出しては大人気ないとか、社会人として落ち着きが必要であるとか、一般的なフレームに当てはめて人を判断している。冷静な指摘が、その人の知性とも解釈される瞬間が多い。
でもこれって一般的な社会を整備して物事をうまく進めるためでしかなくて
それまでの人の感情や感覚みたいなものをないがしろにしている。
人は、どこまでも感情的だし、情緒的だ。特には怒り、時には喜び。
その繰り返しによって起伏をつくり、人生=記憶の世界を豊かに捉えているのだと思う。
やっぱり人と人は分かり合えないので、一定のぶつかりあいは必要なのだと思う。
会って話すことで、人は相手を理解し、好意をいだくきっかけになるから。
常に本音。思ったことはなるべく言葉にする。感じたことを表現する。
アウトプットでしか、周囲の人は何も伝わらないから。
そんな仲間がほしいな。
そんな人間関係でいられることほど、幸せでいられることはない。
幸福を創る一端として、自分の役割はなんなのか。どのように振舞うべきなのか。
見直す機会をくれたことに感謝しなければならない。
自分は全然挑戦していなかった。