優しさを念頭に。

人に優しくありなさい。

 

幼少期からこのようなしつけを受ける家庭は多いだろう。

そのため、意味づけをしていないスタンダードな状態で「やさしくあること」が

当たり前のようになっている人もいる。

だけど、人は生きていく中で恥や悔しさ、恐怖や脅しをうけ

様々な感情を揺さぶられながらそれぞれの解釈を変えて過ごしている。

結果、時を経てやさしさの定義を変えながら、形を変えながら、それぞれの形式をもった優しさがこの世に溢れることになる。

 

人というのはとても面白い。

ひとそれぞれに異なる思考を持ち、言葉を用いてコミュニケーションする。

分かり合うこともできるし、すれ違うケースもあるだろう。それぞれの定義が摩擦を生む。

やさしさという言葉も同様だ。

好意を持って行うアクションも、相手の受け取り方次第で反対の意味を成す。

自分がどう、というよりは相手がどう思うか。全てはここに帰着する。

 

自分視点よりも、相手視点。

いかに、どれだけ貢献できるかどうか。

住みよい街づくり、空気つくりにも必要になってくるね。

予期せぬことが栄養になる。

転職が決まり、新しい職場に行く。

正式な入社は11月以降のため、今は夜に時間をもらい事前研修のようなレクチャーを受けている。

入社後に余分な時間を作らないようスムーズに対応するためだ。

 

新しく話す人、職場の雰囲気、使うツール、思考・志向諸々

すべてが今までの環境とは異なり、いつもとは違う頭の使い方をする。

疲労はすごいがなかなか心地は良い。

いままで入ってこない情報で満たされているからだ。気づきや学びがある。そして、自分はこれを求めていたのかと感じさせ

次の職場でも仲間への貢献を忘れず、献身的にかつ責任を持った行動を起こしていく。

 

こうして思うことは、人はなかなか変えられない生き物だということ。

人は誰しもが日常を生きている。その中は無意識下の時間がほぼほぼを占めており

何気なくすごすことで、毎日を過ごしている。

自然と新鮮味がなくなる生き方。誰もが選ばずしてこのような時間の過ごし方を選び、そういう仕組みで構築されているんだなーとも思う。

変化は不安や恐怖を生む。反対に安住や平穏を心のどこかで望んでいる。

これはもはや欲求レベルである。この気持ちを小脇に抱えて、どのように振舞うか、日常を過ごしていくかが変化を創る良いきっかけになるのだろう。

 

意識して、如何に無意識下に大切な習慣形成の礎を築けるか。 

日常に非日常を創るように、意識して無意識レベルまで物事を落としこめるようになりたいな。

違和感には正直に。突き詰めてみること。

休日は大体スタバに行く。

本を読んだり、ネットしたり。

wife環境が整っているので、御用達。wifiがあるかないかで、行く先が変わるというのは大きな影響力のある施策だと痛感する。

 

そんなこともあってか、周囲には常にPCを広げ仕事?をしている人がいる。

そんなこと家でやれと思いつつ、自分も同じかと納得する。

他人の振り見てわが振り直せとはまさにこのこと。

 

さて、そんなことはどうでもよくて・・・

どこにでもいるのだが決まった時間、決まった場所にいるお客さんっているよね。

決まった過ごし方をしていて、またいんのかい、と心の中で呟く。

だけど、何をしているのかなーって気になってしょうがなくなる。

 

彼ら(彼女)はいつも二人で来る。

そしてお互いPCを開き、ディスプレイ越しに会話をしているのだ。

この時間って何?一緒にいる意味あるのか?と思う。毎回。

もしくはお互い仕事が忙しいために、妥協案があの形なのか。

お互いの共通理解があればいい話なのだが、違和感がすごい。

 

この違和感はどこからくるのだろうか。

自分のカップルに対する固定概念?偏見?自分なりの定義があるということ?

こうすべきだ、みたいな思考が自分の中にあって、その範疇を超えてしまったケースが本件なのだろう。

こういう瞬間は心のそこから感謝である。

なぜなら自分の頭から生まれない選択肢を与えてくれるからだ。

 

人は1日に何万回と選択をすると、本で読んだことがある。

目が覚めて、体を起こすこと。歩き出すこと。鏡を見ること。

無意識下においての選択の連続だ。ここの質が、人生を大きく左右する。

 

ただ、今回は相手がいて、自分がいるという思考の刷り合わせが必要になる。

ということはコミュニケーションが必要で、配慮することが必然だ。

何を望み、どこまで叶えてあげるか。

そのコミュニケーションを経た最善策があの形なのだろう。

常に最善を尽くしており、周りからみると違和感でも共通理解があれば問題ないということ。

 

違和感の源は間違いなく存在する。

ここを突き詰めた先に見える景色こそ、本来のあるべき姿が現れてくるのではないか。

違和感には正直に。

この気持ちを大切にしていきたい。

思考を拡げるには、人と話すこと。

昨日は起業してかっこいい生き方をしている人と話をした。

たった30分だけの時間だけど、すぐ過ぎてしまうほど充実した時間になっていた。

女性の方だけど、自分の意思で生きることほどかっこいいことない。自分自身もそうありたいと思えた瞬間だった。

 

そして、今公開講座による学びを実践しているが

今の方向性で間違いない、という確信みたいな気持ちが芽生えた。

なぜなら語っていることの内容がまったく同じだから。

 

起業した経緯や、当時から何を思い、どのように目標や目的を具体的にしてきたのか。

具体性と、継続したアクション。

イメージするための情報を仕入れて、正しい物事の判断基準を自分で形成していく。

何より自分が信じていられるか。自分の実践が正しいと思えるか。

自分に対するコミットメントこそ自己実現の根本的な部分になるのだと気づく。

 

また、成功の過程では仲間や支援者の存在が必ずいること。

ゴールが明確になると、求めるものを与える存在が自然と現れる。

人に活かされ、人を活かす。

よくいう「人を大切にしよう」「ご縁を大切に」というのはこの事実のことである。

言葉の裏には人それぞれの異なる解釈が存在する。

物事に対する解釈、より深いところで理解をすすめることこそ、一番大切なことだ。

相手に対して悩むことほど無駄なことはない。

久々に怒鳴り散らされ、心が揺れ動かされる瞬間に陥った。

意図や経緯に理解に苦しむ瞬間もあったが、強度の罪悪感に苛まれ、その後なかなか通常のモードに戻ることができなかった。

 

これは何か試されているのかも、と思う反面

そんな怒らなくてもとか、非常識にもほどがある、人として疑うなど

相手に責任を向けてしまう瞬間もある。

いろんな感情がいったりきたりして、なかなか落ち着きが保てなかった。

 

しかし、こんな気分に陥ったのはいつぶりだろうか。

大人になり、怒られることが少なくなった。また、怒りが芽生えても表に出しては大人気ないとか、社会人として落ち着きが必要であるとか、一般的なフレームに当てはめて人を判断している。冷静な指摘が、その人の知性とも解釈される瞬間が多い。

 

でもこれって一般的な社会を整備して物事をうまく進めるためでしかなくて

それまでの人の感情や感覚みたいなものをないがしろにしている。

人は、どこまでも感情的だし、情緒的だ。特には怒り、時には喜び。

その繰り返しによって起伏をつくり、人生=記憶の世界を豊かに捉えているのだと思う。

 

やっぱり人と人は分かり合えないので、一定のぶつかりあいは必要なのだと思う。

会って話すことで、人は相手を理解し、好意をいだくきっかけになるから。

常に本音。思ったことはなるべく言葉にする。感じたことを表現する。

アウトプットでしか、周囲の人は何も伝わらないから。

 

そんな仲間がほしいな。

そんな人間関係でいられることほど、幸せでいられることはない。

幸福を創る一端として、自分の役割はなんなのか。どのように振舞うべきなのか。

見直す機会をくれたことに感謝しなければならない。

自分は全然挑戦していなかった。

自分のことは自分で大切にしよう。

最近の自分は自己愛の形成を怠っていた。

武井壮が語る言葉にするなら

「自分にプレゼント」を送るという行為。

 

自分にとって何をすれば心が喜ぶのだろうか。

何が自分にとって大事なのだろうか。

 

ただで生きているだけで、埃のように

体や心には余分なものが堆積し、日々ストレスが増している。

その状況から目線を逸らして、見てみぬふりをすることは

一時的に気が楽になっても、根本的な解決にはならない。

 

やっぱり本質的な解決策をいかに見出すかが大切なんだと思う。

自己概念を上げる方法、自分で自分を愛することも一つの力であり、スキルなんだと思う。

 

大切なことを忘れていたなー。

思考が大事

人が抱える苛立ちとはどのような瞬間に感じるのだろうか。

最近自分が直面しているのは、理想と現実のギャップによるもの。

 

あの人ならこうしてくれる。

この状況だと、こうするでしょ。

こうするのが当たり前じゃないの?

 

自分の正しさとか、正義みたいなものを他人に押し付けているだけなのだ。

同時に思うのは、このように思わないとやってられないということ。

 

結果にコミットするのは当たり前、その上でこのように行動することが必要だと自分なりの仮説を持ちえているが、思考は誰もが異なるもので結局はすり合わせが必要だ。

落とし所というべきか、明確な折衷案を掲示しなければならない。

 

なんだかんだ、自分は譲ってしまう方だけど、これって損してるよね。

自分の挑戦の機会を逃しているだけだから。

自分には何ができて、何が出来ないのかすらわからないことほど不毛な時間はない。

このような気付きを如何に増やせるか。自分にとって頭の思考以外の要素を占めることができるか。

他人の頭を使って、自分にとって良い方向へとベクトルを向けることが今の自分にとっては必要なんだと思う。

だからこそ人は他人から学び、繋がりによって幸福感を感じたりなど豊かな人生を送ることができるのだろう。

結局、人はひとりでは生きて行けない。自分のためにも頑張れない。

誰かのため、何のために自分が頑張るのか。目的を明確を出来たときに人の心は動くのだろう。人の心を動かすのもまた、人の力である。

 

この思考レベルを潜在意識にまで落とし込むような生き方をしたい。